2011年1月 奥日光






ここのところ、物事をすぐカテゴリー化して見てしまう自分の癖にウンザリしてきた。
例えば文化系の作品について、あれは何系これは何系、と体系化することで、あたかも"自分はわかっている"と思い込んでしまう。
体系化・抽象化は理解を深めるために有用ではあるけど、時に感性を閉鎖的にしてしまうんじゃないかと感じることもある。
しかしそれはまだどうでもよくて、個人的に切実にまずいと思うのは、人も同じように詰まらない基準でカテゴリー化して見てしまっていることである。
こういう系の人はこういうのを好む(のでカッコいい、ダサい)。
だからそういう人は当然あれが嫌いで、こういうことを考えてる(考えていない)。
ひどい驕り。


それは他人に対しての話に限らない。
つまり経験的な判断で自分をカテゴリー化し、その一般化された立場なり志向なり(また嗜好なり)に、
無意識に自分を合わせていってしまうということである。
極端な例だと、ある対立する思想や主義やグループがあったとする。一応の認識では、自分はある片方の側にいる。
そして、同じ側にいる人間の多くが口を揃えて言うこと、賛成すること、好むことに対し、特に疑いもせずに迎合する。
こういうことは多かれ少なかれ誰にでもあるかもしれないが、それは自律的な選択とは言い難い。
3月11日以後、混沌とした中で多くの議論の場に出くわしてきたが、しばしばこのことについて考えさせられた。


個の人間は安易に掴めてしまうほど単純なものではない、と信じるべきなんだろう。
また自分を一般化された”系統”の一部であるように、安く捉える必要もない。
そして他人に対し思慮深く謙虚な眼差しを向けることの大切さを、考え直す必要がある。